夜考虫。 のブログ

夜考虫。とは…夜に集っては真剣に呑んで考えてる、地域ケアの多職種エキスパートチームです。

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2020.02.19 Wednesday

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    2012.05.03 Thursday

    震災を語る グループ2 まとめ

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      ●居宅介護支援事業所  介護支援専門員 Oさん 男性

      1、震災時居た場所?
       
       多賀城市の総合病院

      2、その時何をしてましたか?

      震災時は利用者の受診を同行していて被災にあい、その後は利用者が落ち着くまで一緒にいて、とりあえず会社に戻ろうと思い、病院から会社まで担当の利用者の方が独居、高齢世帯の方がいるので様子をみながら戻りました。
      居宅以外でデイも併設しているので、利用者の様子をみながら近くの小学校が避難場所なので職員と利用者を連れて避難を行いました。

      3、当日、翌日の動きは?

      居宅以外でデイも併設しているので、利用者の様子をみながら近くの小学校が避難場所なので職員と利用者を連れて避難を行いました。その日は避難場所に泊まり、翌日から徒歩で利用者さんの安否確認をしていました。

      4、震災前に戻れたら?
       
       特に考えられない。
       
       
      ● 医療福祉系大学院兼ボランティア  Yさん 女性●

      1、震災時居た場所?
       
       東京

      2、その時何をしてましたか?

      自宅にいた。
      私は一人暮らしで誰とも1週間あわず。当日から翌日を振りかえっては状況が上手く把握できなかったが、東京でも相当ゆれたのでずっと横揺れでどこかで何かがあったとは思ったが、兄が福島でその後連絡がすぐにとれたが、その後連絡がとれずその後も地震があって不安で、家も木造アパートなのでより不安だったが、何もできないままでいた。

      4、震災前に戻れたら?
       
       その時は頭が真っ白。現在になってようやく後回しになった事が出来る様になってやっとこういう風に動けるようになってこの場にも参加出来る様になった。
       

      ●通所介護相談員 Iさん 男性●

      1、震災時居た場所?

      多賀城市のデイサービス

      2、その時何をしてましたか?

      震災時私は利用者さんと一緒に外でタバコを吸っていて外だったのであまり揺れは感じなかったが、中の方から悲鳴が聞こえて揺れが徐々にひどくなった状況です。

      3、当日、翌日の動きは?
       
       自宅が近い人は送迎をしたり、避難をしたりなど手分けして行っていた。
       翌日からは帰宅できなかった人の対応。避難所を周り家族の人を探して回ったり・・・。

      4、震災前に戻れたら?
       
      ガソリンを満タンにしたり、情報源がなかったので必要な物を集めたりしておきたかった。


      ●通所介護相談員 Aさん 女性●

      1、震災時居た場所?

      岩沼市のデイサービス

      2、その時何をしてましたか?

      た当日職場で丁度ごはんを食べていた。


      3、当日、翌日の動きは?

      地震が収まると思ったらなかなか収まらず、そのとき利用者さんが20名ほどいてとりあえず揺れが収まってくれと願いながら必死に耐えていた。去年8月に増築したばかりなので揺れという面ではあまりなかったが、その後すぐに停電になって通行者に津波が来るといわれ、利用者さんの車椅子を押して避難場所に行き、本当に津波がくるのかなという感じで、そしたらだんだん津波がきて避難所自体もあやゆくなったが、2日間避難所にいて、3日目に住んでいる丸森に会社の人の協力の下戻れた。


      4、震災前に戻れたら?

      当日休みだったらよかったかな。(笑)


      ●福祉系の大学生 OEさん 女性●

      1、震災時居た場所?

      福島市

      2、その時何をしてましたか?

      丁度福島市で買い物をしてたときに被災しました。


      3、当日、翌日の動きは?


      家族を中心に電話などで安否確認をしていた。


      4、震災前に戻れたら?

      家族みんなで過ごしていればよかったです。当日家族みんなばらばらで、そろっていたほうが安否確認など時間をはぶけた。

      ●グループホーム介護員 Sさん 男性●

      1、震災時居た場所?

       実家(古川)

      2、その時何をしてましたか?

      震災当日は丁度私は夜勤明けで実家暮らしなんで家で寝ていました。

      3、当日、翌日の動きは?


      覚えてはいないでんすが、気づいたらゆれていて隣でうちのおばあちゃんが編み物していたんですが、なんだか色んなものが倒れてきたりしていて、ヨタヨタ転がっていておばあちゃんを一生懸命ひきずりだしていました。
      雪が降ってきていてすごいなって感じでも覚えています。
      職場の方には夜にいったんですけど、本当にまっくらで、その後たまに話は聞いたりしましたが、丁度その夜の星が綺麗だったと。本当に星がきれいでした。
      利用者の方はけが人なく、次の日からガスが使えましたが、水道が使用できずお風呂が入れなかった。

      4、震災前に戻れたら?

      やってて良かった事はなかなか思いつきませんが、ガソリンは丁度その日に満タンにいれていて、丁度満タンの状態だったのでその後、食料確保や水、毛布などを取りにいけた。
      タイムスリップはやっぱり食料や情報ですかね。後はオムツやパットがたらなくなり、そこは後からお店から回ってはきたんですが、オムツなどの数は少なかった。
      情報面ではGHだとどうしても食料を自分たちで調達しないといけなくて大きなお店に行くと1人何十点までとかあってそういうときだと個人でやっている魚屋や八百屋でわけてくれたので地域密着とはいうけどGHではなかなか地域密着ができていなかった。まあ前日では間に合わないが、地域のコネというか関わりがあれば、今回もまあまあいけたけど、もしかしたら近所の人が助けてくれたかもしれないので、もう少しネットワークが出来ていればいいのでは・・・


      2012.04.23 Monday

      震災を語る グループ2 その2

      0

        O:私は防火管理者もしていて、避難訓練や救命講習など定期的
          に色んな講習をしていたので、そういった意味で多少なりスム
          ーズに誘導などを行えたのが良かった。緊急連絡際なども確認
          してたので、迅速に利用者さんの家族などに確認し対応を行う
          事も出来たのも良かった。
          前日に戻れるのであれば、食事もあまり出来なかず備蓄もして
          いなかったのでそういった点ですかね。後は考えてもなかなか
          難しく、今回の一番の反省点は情報がない状態で避難したりも
          したので、後から考えると怖いと思います。私の会社の近くまで
          津波がきていた事を考えると・・・

        Y:やってて良かったことはあまりないですが、ただよく携帯メールに
          いろんな情報がはいってきたのが、3日後くらいだったんです。
          うちの父や家族からの知り合いから(色んな情報がメールで送
          られて来ていましたが、情報源が)怪しいと思い、(メールは)ま
          わしませんでした。でも、その判断は良かったと思います。

        I:やってて良かったことはあまりないですね。前日に戻れるなら
         やっぱり食料の備蓄ガソリンなどいっぱいにしていればよかった。

        A:避難所に2.3日いて思った事は、水がないので普通に手を洗え
          なかった事もあり、手袋や消毒スプレーなど衛生面の準備ですか
          ね。
          情報源としてラジオを全国放送に合わせていたので、津波の情
          報が上手く入手できず、自分の住む地域の放送局に合わせてお
          ければ良かったなって。私も車を流されてしまったので・・・。
          良かったのは利用者さんが犠牲にならなかったことですね。1階に
          津波が入り、2階に利用者さんの私物を置いていたので、翌日に
          は利用者さんにお荷物を渡せたことはよかったと思います。
          備蓄として水や飴をどっさり2階にもっていったので、糖尿病の人
          にもきちんと対応できた。

        M:やってて良かった事は特になし。
          タイムスリップできるのであれば、家族みんなで過ごしていれば
          よかったです。当日家族みんなばらばらで、そろっていたほう
          安否確認など時間をはぶけた。

        O:「実際安否確認はどのくらいかかったんですか?」

        M:自分は5人家族。震災時は4人いたが、お父さんが仕事で不在
          でしたが、夕方には帰ってきたので、そんなには時間かからな
          かったと思います。
          友人や親戚は1週間くらい連絡とれるまでにかかりました。

        S:やってて良かった事はなかなか思いつきませんが、ガソリンは
          丁度その日に満タンにいれていて、丁度満タンの状態だったの
          でその後、食料確保や水、毛布などを取りにいけた。
          タイムスリップはやっぱり食料や情報ですかね。後はオムツや
          パットが足りなくなり、そこは後からお店から回ってはきたんで
          すが、オムツなどの数は少なかった。
          情報面では、グループホ−ムだとどうしても食料を自分たちで
          調達しないといけなくて、大きなお店に行くと1人何十点までとか
          あって。そういうときだと個人でやっている魚屋や八百屋でわけ
          てくれたので。地域密着とはいうけど、グループホームではなか
          なか地域密着ができてれいなかった。
          まあ前日では間に合わないが、地域のコネというか関わりがあ
          れば、今回もまあまあいけたけど、もしかしたら近所の人が助け
          てくれたかもしれないので、もう少しネットワークが出来ていれば
          いいのでは・・・

        K:東京だったので情報はあふれるくらいあったが、食料が殆ど
          なくて。でも、カンパンなどは実際使わなかった。近所の人とは
          よく接していて、ソーラーパネルなどあればそれをみんなで使い
          合おうという関りがあった。
          東京でも相当ゆれて、本棚とか倒れてきたり最低限の事はしな
          くちゃいけないという日頃の心構えを、ちゃんともっていようと
          今回感じた。

        O:[被災地・被災地以外の方もいましたが、みなさん話あってもらっ
          た中で何か聞きたいことなどありませんか?]

        K:僕は逆に聞きたいことがあって、情報の中で痒い所に手が届か
          ないようなそういう支援が多くあったと聞いていますが・・・

        A:本当に渦中の場所にいて情報がない中、結局避難所の機能も
          パンクしていて。
          仙台空港に避難をしていたが、もっと沿岸部に大きな施設があ
          るということで、3日後にやっと空港から開放された。職員が自
          転車で役場や警察署に行き、ここに避難をしていると訴えてよ
          うやく助けにきてくれたとの話を伺った。
          その話が本当であれば、なんで水が引いた後にすぐにきてくれ
          なかったのかと思った。物資はそのあときたが、世の中の介護
          のイメージが寝たきりやオムツを使用している人で、うちではオ
          ムツ使用者がいなくてリハビリパンツ着用の人のみでオムツが
          きてどうしようと思った。他の避難所にくばったけども・・・
          行為は本当にありがたかったんですけどもね。

        S:古川の被害は施設など大きな被害がなかったが、一旦店から
          支援物資という形で食料をもらいました。でも、ポップコーンや
          ぜんまいなどダンボールでいっぱいもらったが、もらった時点で
          食料は自分たちでも買える状況で。
          翌日や次の日であれば助かったが、何日もたってから売れ残
          りの商品みたいなものもらって、糖尿の方が悪くなるような物だ
          と・・・困るときもあった。
          その時期で避難所に届くものも変わっていた状況。こっちの状
          況も変わるので、上手く調整できればよかったんですけども・・・

        O:救援物資も避難所によってもばらつきあって、自分が避難した
          場所では初日はなしで、翌日カンパン一枚。他の避難所では
          すぐにおにぎりがでてくるなど、ある程度の時期から食料が入
          るようになって、自分たちもそうだがご飯が手に入ると、次は
          卵をかけたくなるなどの要望もでてくる。同じもの何度も入って
          きたり被災されてる方が望むもの、送ってくるものにもギャップ
          があった。

        K:情報がはいってこないという事は、こちらも情報をだせない状況も
          あった。やっぱりそういうコミュニケーションを上手く作れるといい
          ですね。自分たちも何をしていいのかわからず想像力で救援
          物資を送るしかなかった。なのでそのメッセージを強くいっていく
          のがいいのでは。福島もそうですよね。

        M:私は福島市で、近くに大きな避難所あるのですが、最近バラけ
          てホテルや旅館に行く人もいったり・・・

        M:原発の影響で避難している人たちが、だんだん通い始めてる
          ようになってはいましたが、こちらでは顔見知りもいなくぽつん
          ぽつんとしていてこちらでも積極的に話たり、海に行くのは辛い
          ので、山などにドライブにいったり、それでだんだん笑顔が見ら
          れたりしてきたが、だけど早く帰りたいという話は出ている。
          私たちではどうもできないがとりあえすここにいる間は楽しんで
          過ごしてほしいという気持ちでやっています。

        O:「避難所でグループホームの方が避難していて、光がない場所
          で不穏になったりもしたが。皆さんはいかがでしたか?」

        S:うちのグループホームも灯がなくて、いつもだと部屋にひとつは
          光があるがまっくらで余震も続くのでろうそくなども準備できず、
          いつもトイレを一人で出来る人が失敗して興奮したり・・・

        A:介護の手が必要ない人でも必要になるんですよね。避難所に
          20人くらいでいましたが、誰かトイレに行くたびに必ずついて。
          戻ると、私も!私も!ってな感じになったり、ストーブが少ない
          ので、寒い寒いといってストーブに直接手で触ろうとして。それ
          をとめたりなどと大変でした。

        O:[実際ライフライン跡絶えた中で転倒し骨折したなどの事故も、
          けっこうあったのでそれも今後の課題ですね。]

        A:ガソリンがなくなるとは思わなかった。1日目は発電機があり、
          明るく暖房も大丈夫だったが。2日目くらいになるとガソリン調達
          できなくて電気が無理してつけられず、暗くて寒い。3日目くらい
          で届いたりはしたが・・・

        K:東京でもガソリン入れるのが渋滞でしたね。
        Y:そうですね。
        K:空いているところ探しては確保。送る為に並んだり。震災後講演
          で福岡に行く事があって本州とは違く生活は全然普通だった。

        O:こういう震災ははじめての経験で、何をしていいのかわからない。
          津波警報がでているなかで、本当に安否確認にいって大丈夫
          なのか?といった不安の中で生きていましたね。

        (グループ2 終了)


        2012.04.15 Sunday

        震災を語る グループ2 その1

        0
          O:とりあえず自己紹介からしていきましょうか。この中で知り
           合いの方いますか?
           では、まずは私から。Oと申します。職種ですが、多賀城市で
           ケアマネをしています。震災後私自身も避難場所に数日いたの
           でちゃんとした物を食べた記憶がないですが、しばらくしてスー
           パーでお肉を買って食べたのが感動しました。私はこういう体
           型なので、お肉は比較的毎日食べていましたので。
           当日は利用者さんの受診を同行していて震災に遭い、その後は
           利用者さんが落ち着くまで一緒にいて、とりあえず会社に戻ろ
           うと思いました。病院から会社まで、担当の利用者さんで独居
           や高齢世帯の方のお宅に寄って様子をみながら戻りました。
           会社は居宅以外にデイも併設しているので、利用者さんの様子
           をみながら、近くの小学校が避難場所なので職員と利用者さん
           を連れて避難を行いました。その日は避難場所に泊まり、翌日
           から徒歩で利用者さんの安否確認をしていました。

          Y:私は介護職ではありませんが、東京から今日はきまして、医
           療福祉の大学院で、えーと、高齢の方の何でもよろず相談みた
           いな小さな事務所を7月にオープンさせた知り合いの、訪問看護
           ステーションの事務職などをボランティアをしてます。
           震災後食べて感動した物は…。東京で震災の体験をしたので
           状況は全然違うのですが、私は一人暮らしで誰とも1週間会えず、
           1週間後大学院に行き、そこで人と話した時が震災後にはじめて
           人に触れた時で。その際に買って食べた、どうでもいいスナッ
           ク菓子が印象的でした。
           翌日に、当日を振りかえってみましたが、状況が上手く把握で
           きませんでした。東京でもずっと横揺れで相当揺れたので、ど
           こかで何か(大変な事)があったと思いました。兄が福島で、直
           後は連絡がとれましたが、その後から連絡がとれず、その後も
           余震があって不安でした。家も木造アパートなので、より不安
           でしたが、(不安すぎて)何もできないままでいました最近になっ 
           て、ようやく後回しになった事が出来る様になって。
           やっとこういう風に動けるようになり、このイベントにも参加
           出来る様になりました。

          I:私は、多賀城市のデイサービスの生活相談をしていますIです。
           震災後食べて感動したものは、冷たいものしか食べれなかった
           ので、偶然あいていたラーメン屋さんでラーメンを食べれたの
           が感動でした。震災時、私は利用者さんと一緒に外でタバコを
           吸っていて。外だったので、あまり(最初の)揺れは感じなかっ
           たんですが、施設の中の方から悲鳴が聞こえて、揺れが徐々に
           ひどくなった状況です。
           ライフライン、水道電気、ましてはラジオもなくて状況がわか
           らない状態でした。その後、津波警報が発令になって、自宅が
           近い利用者さんはご自宅に送迎しました。

          A:岩沼市で、デイサービスの生活相談員をしていますAと申します。
           当日職場で丁度ごはんを食べていて被災し、地震が収まると思っ
           たらなかなか収まらず、そのとき利用者さんが20名ほどいて、
           とりあえず揺れが収まってくれと願いながら必死に耐えていま
           した。
           去年8月に増築したばかりなので揺れという面ではあまりなかっ
           たんですが、その後すぐに停電になって。通行者の方に「津波
           が来るぞ!」といわれ、利用者さんの車椅子を押して避難場所
           に行き、本当に津波がくるのかなという感じで…。そしたら、
           だんだん津波がきて。避難所自体も危うくなりましたが、2日
           間避難所にいて。住んでいる丸森町に会社の人の協力のもと、
           3日目に戻れました。
           感動した食べ物…実家が農家なのでお米は食べれたんですが、
           私もこういう体系なので甘いものですかね。(笑)
           震災後はうちは意外と早く営業再開できたのですが、仮の営業
           所で2ヶ月やって、もとの場所に戻り、今は全部開業できて
           今までどおりやっています。

          K:講談社のKと申しましてヘルプマンを担当しています。本日は
           東京から皆さんの話を伺いにきましたので、何か多く話すとい
           うよりは聞く立場としてきました。後5分との事なので、みな
           さんにバトンタッチしたいと思います。

          MI:名前はMIです。えと大学3年生で福祉の大学に通っています。
           震災後の食べ物ですが、震災時はカップラーメンなどは食べれ
           ましたが、野菜がたべれなくて大変な状況だったので、野菜を
           食べれたのが感動的でした。
           震災当時は自分は福島出身なので、丁度福島市で買い物をして
           たときに被災しました。原発などの色々な大きな問題もあるの
           で、現在の状況は福島は放射線の事で頭がいっぱいです。

          S:古川市のGHで介護していますSと申します。まず食べ物のほう
           は私の事ではないですが、(職場の)建物は新しくしたばかりで
           建物被害もなく、利用者さん達は地震があった事を忘れてしま
           い、地震がきてから少しでの間は缶詰などもともと蓄えたもの
           しか食べさせる事しか出来ず「なんでこんな物しか食べさせな
           いんだ。」と、逆に怒られる事がありました。
           震災当日は、丁度私は夜勤明けで実家暮らしなんで、家で寝て
           いました。あまり覚えてはいないでんすが、気づいたら揺れて
           いて。隣でうちのおばあちゃんが編み物していたんですが、な
           んだか色んなものが倒れてきたりしていて、ヨタヨタ転がって
           いたおばあちゃんを一生懸命ひきずりだしていました。
           (あの日は)雪が降ってきていて、すごいなって感じで覚えてい
           ます。
           職場の方には夜に行ったんですけど、本当にまっくらで。その
           後、たまに話は聞いたりしましたが、その夜の星が綺麗だった
           と。本当に星がきれいでした。
           利用者の方は怪我人なく、次の日からガスが使えましたが、水
           道が使用できずお風呂に入れませんでした。

          O:「実際はたいている方で利用者さんの被害はありましたか?」

          A:なくなった方はいないですが、自宅が津波で流されてしまった
           方はいて、私はその方と最後まで一緒にいたんですが、薬がな
           くなって飲めなくて。調子を崩して救急車を呼んで。その後、
           私たちが家に戻れたという事があって。胸が痛くなる出来事も
           ありました。その後、その利用者の方は元気になりましたが…

          O:「確かに薬の問題はありましたね・」

          S:GHではもともと置いていた薬もあったし、たまたま受診した日
           が近く沢山たったので大丈夫でした。
          O:私は利用者の薬をとりにいくという事がありましたが、最初は
           1週間、その後2週間、1ヶ月処方されるという状況でした。

          O:[被災地以外では薬の状況などはいかがでしたか?]

          Y:うーん、薬より食料がスーパーからなくなりました。薬は送れ
           るものは送るという動きはあったんですけど・・・
          O:情報については、実際自分たちも情報がなかなか入ってこない
           という事が大きかったのですが、ちゃんとテレビを見ての情報
           確認できたのが遅かった。福島の状況などはいかがでしたか?
          M:やっぱり3〜4日間かかって、そこからラジオなどで確認した
           感じです。

          (震災を語る グループ2 その2へ続く)

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